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ペーパーバックの数が増えていく TEXT+PHOTO by 片岡義男

22 譜面を読む、という趣味

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 ジャズのスタンダード。ビッグ・バンドのスイング。ラテンの歌曲。一九二十年代のヒット・ソング。一九三十年代のヒット・ソング。一九四十年代のヒット・ソング。僕はこの六冊を持っている。「ペーパーバック・ソングス」というシリーズだ。もっとほかにもあるが、僕はこれだけで充分だ。
 八十五曲から百二十曲ほどが、歌詞つきのごく簡単な譜面で、収録してある。こういう簡単な譜面を読んでは、良く出来た曲や好きになれる歌を発見する趣味が、僕には大学生の頃からある。最近は読んでいなかったが、このシリーズを買って昔の趣味が少しだけよみがえった。
 一九三十年代のヒット・ソング集を、さきほどから僕は見ている。なんとなくページを繰っていたら、『ザ・ニアネス・オヴ・ユー』の譜面が目にとまった。主旋律とコード、そして歌詞だけの譜面を見ながら、いろんなことを考えている。
 この『ザ・ニアネス・オヴ・ユー』という原題に、三十年、四十年前の日本では、『あなたのお傍に』というような翻訳題名があてがわれていた、という記憶がある。身体性そのもののような具体性である『あなたのお傍に』という邦題が、いかに間違っていることか。原題を見れば「ニアネス」と言っているではないか。近くあること。近さというもの。近いということ。「ニアネス」とはこういった概念であり、「お傍」という具体性とはまるで世界を異にしている。
 『ザ・ニアネス・オヴ・ユー』はホーグランド(ホーギー)・カーマイケルが一九三七年に作曲した作品のひとつだ。コピー・ライトが一九四十年となっている場合もあるが、ネッド・ワシントンによって歌詞がつけられ、歌になった年を意味しているのだろう。歌詞を得て同年のパラマウント映画『ロマンス・イン・ザ・ダーク』のなかで使われ、それをきっかけにしてヒット・ソングになった。
 カーマイケルが作曲したとき、『ザ・ニアネス・オヴ・ユー』という題名は、すでに彼の頭のなかにあったのだろうか。この四語ワン・フレーズを主題にして曲を作ろう、と彼は考えたのだろうか。それとも、題名やそれにともなうイメージなどまったくなしに作曲し、完成したあとも曲だけのままで、ネッド・ワシントンの作詞を待ったのだろうか。
 カーマイケルには一九四十年にインディアナ大学から刊行された、『ザ・スターダスト・ロード』というメモワールがある。若い頃の彼はインディアナ大学で法律の勉強をしていた。コルネット奏者のビックス・バイダーベックとは親しい仲間で、ダンス・パーティや無声映画の上映などでは、ともに演奏活動をしてもいたという。一九二十年代のことだ。
 メロディは頭で考えて譜面に書くものではなく、見つけるものだ、と彼は言っている。メロディの始まりの部分をうまくつかまえることが出来れば、あとはそこから先を正しくたぐり出すかのように、ピアノの鍵盤を弾いていけばそれでいい。ピアノの鍵盤にメロディはいくらでも隠れている。作曲者はそれをひとつずつ見つけていくだけだ。カーマイケルの考えかたは、こんなふうだった。
 彼にとってもっとも成功した曲である『スターダスト』を、カーマイケルが「見つけた」逸話を僕は思い出す。久しぶりで訪れたブルーミングトンで、母校インディアナ大学のキャンパスを夜ひとりで歩いていた彼は、他の男性と結婚した初恋の女性について思いをめぐらせながら、夜空を見上げた。その瞬間、あの『スターダスト』の始まりの部分のメロディが彼の頭に浮かび、反射的に彼はそれを口笛で吹いたという。
 ビックスたち仲間との溜まり場だったブック・ヌークという店に、彼はさしかかった。一日の営業を終えようとしていたその店に入った彼は、店主に頼んでピアノを弾かせてもらい、『スターダスト』のメロディを最後まで、その鍵盤からたぐり出すことに成功した。そのようにしてひとまず完成した『スターダスト』は、早いテンポのピアノ・ソロ曲だった。のちにミッチェル・パリッシュが詞をつけてスローな曲に直したあとで、ヒット・ソングとなった。
 このような逸話から推測すると、『ザ・ニアネス・オヴ・ユー』が曲として完成したとき、題名はなかったのだろう。曲だけがあったのだ。そしてそれに、ネッド・ワシントンが詞をつけた。詞をつけたとは、ザ・ニアネス・オヴ・ユーというフレーズが、詞と曲とのぜんたいにとっての主題となると同時に、題名ともなったということだ。
 A・A’・B・A”三十六小節のほんのちょっとした歌であるだけに、主題となる言葉の見つけかた、そしてその言葉をどの部分の音譜に託すかに関して、選択の余地、つまりあれこれ迷ったり苦吟したりしている余地は、ほとんどないと言っていい。譜面に詞をたどっていくと、苦吟した様子などどこにもない。このような作詞の芸当は、なにをどうすれば可能になるものなのか。
 音楽的な直感や文芸的な閃き、さらには詩作にかかわる天啓などを待っていたら、絶対に埒はあかない。すべては科学だと僕は思う。曲作りがそもそも科学なのだが、その曲に詞がついて歌となり、歌われて演奏がともない、それを聴いた人の内部にはかなり強い感情が喚起されるのだから、こうしたことのぜんたいを化学反応だととらえると、ケミストリーの部分を多分にはらみつつサイエンスとしてとりおこなわれるのが、曲に詞をつける作業だ。そしてその科学は、なぞらえるなら数学なのではないか。
 ザ・ニアネス・オヴ・ユーというフレーズは四語だが、音節で数えていくと五音節だ。だから五つの音譜に乗せるとして、譜面ではそのとおりになっている。A・A’・B・A”の四つの部分のうち、BはAを敷衍する役割だとすると、それぞれ微妙にかたちの異なる三とおりのAが、どれもみな主題のステートメントだということになる。そうならざるを得ない。そして三とおりのAのなかのどれにも、ザ・ニアネス・オヴ・ユーという言葉がある。
 A”では締めくくりにふさわしいかたちで、この言葉が五つの音譜に託されている。AそしてA’においては、it’s just the nearness of youというかたちになっている。ザ・ニアネス・オヴ・ユーという主題が、曲の後半において、it’sと指し示されて特定されているからには、それと対になるものが曲の前半になくてはならない。そしてそれは、it’s not the pale moon that excites meという、notという否定語を巧みに用いてなされている提示だ。
 ザ・ニアネス・オヴ・ユー、つまりいまこうして自分の腕のなかにあなたを抱いているという、ほぼ絶対的な近さというものを、普遍にも到達しようかという大きな価値として、it’s just the nearness of youと提示することに対して、このもっとも大きな価値よりは明らかに小さなものとして、淡く輝く月や甘い会話、ほのかな優しい灯などが、it’s notという否定の言いかたによって、対置的に提示されている。これはほとんど数式だと言っていい。
 淡く輝く月や甘い会話、ほのかな優しい灯などが、自分にどのように働きかけるかを言いあらわす手段として、exciteやdelightあるいはenchantといった動詞が使役され、それらの動詞はすべて、最後にあるgrantという動詞のなかに収斂されていく。こんなふうにあなたを抱きしめることをあなたが私に許してくれるなら、という文脈でのgrantというひと言だ。
 AそしてA’においては、it’s notで提示されるものとit’sで提示されるものが、対置の関係となっている。そしてそのふたつを結ぶものとして、AとA’のどちらにも、oh,noというひと言が、ふたつの音譜に託され、きわめて巧妙に作用する接続詞のように配置してある。初めに登場するit’s notのnotを、魅力的なかたちで反復したものだ。こういうところも、数式そのものだと僕は思う。
by yoshio-kataoka | 2006-07-15 12:50




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